レッスン初日、開始直後、心の中で「あ、子どもにいろいろ詰め込みすぎだ。このままじゃ頭の中に入っていかない」と警告が鳴った。だけど、予定していた内容をそのまま続けてしまった・・・・
案の定、手ごたえがないままレッスンを終える
反省した、私は自分のコンフォート(自分にとって楽な方法、予定した内容をする、計画どおりにすすめること)を選んでしまった。予定変更するリスクはとらなかった(こわいから)。でも心の中の警告は正しかったことは嬉しかった。パートナーのやっちゃん(プロの教師)から、「クラスルームから生徒が出る時、一つだけ持たせたいことは何か、そのために他のことはすべて捨てなさい。」と教えられた。さらに、「準備してなかったら捨てるものはないんだよ」と励まされる(涙)
二日目のレッスンに挑む。予定を変更し、準備した内容をすべて捨て、テーマの聖書のことば一本にして、神様の動きに集中してレッスンを進めた。自分の証し(悪いことをした、罪の意識に悩まされていた、イエスさまの十字架を知った、信じた、赦された、もう悪い子じゃない、もう悩まなくてもいいんだ)、朝に聖書の言葉を通して与えられた解釈「古くて汚い服をきているときの気持ち、新しい服をきているときの気持ち」から入り、イエスさまは新しい服をきせてくれるお方であり、十字架はそのためなんだ、イエスさまといっしょに生きるっていうことは、新しい服をきて生活することなのだということをを話した。
レッスン後に子ども達が感じたことを描いた絵をみた時、聖書のことばが子ども達の心に伝わったことを知り、涙する・・・
自分の安心を捨てるのは怖いけど、神さまを信じて捨てたとき、そこに生きている神さまの息が吹きこまれる。捨てるものが大きければ大きいほど、たくさん神さまが入ってこられる。生きている神さまを体感した。
『私はキリストと共に十字架につけられました。もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』 新約聖書 ガラテヤ2:20